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昨今では多くの自治体や企業がリサーチ&アートプロジェクトを主催や後援といった立場で開催し、集客数を伸ばしています。KYO−SHITSUも、そのひとつ。では、アートプロジェクトとは何か?立ち返ってみるために、シリーズ「アートプロジェクトを捉える」を通して紐解いていきます。
今回は3回の連載を通して、「メディアアートをイベントで学ぶこと」を考えていきます。ワークショップデザインの専門家である東京大学大学院 情報学環 特任助教/株式会社ミミクリデザイン代表 安斎勇樹さん、デザイン教育を大学院で研究しているKYO-SHITSUスタッフの小田裕和さん、そしてKYO-SHITSUプランナー白井で対談を開きました。
前・中編を通して、いかにイベント後も記憶に残り、学習を継続できる設計を行うか?を考えてきました。そのためには、イベント内で「分からなくなる学び」を引き起こすことが重要です。参加者にとって「当たり前」だった前提がイベントによって揺さぶられ、日常の中でも考え続ける「問い」(課題や疑問)を得ること。その問いは、「個人的な疑問」と「社会的な課題」を結びつけることで湧き出てきます。その架け橋をイベントが担うことで、イベント後の学びにも影響を与えられる、と安斎さん。
後編は学びの環境をいかに継続させるか、考えるところからスタートです。
継続的なプロジェクトを紡いでいくには
デザイン教育研究者 小田裕和(以下、小田) 自身の疑問と社会的な課題を結びつけた「問い」を連続させることで、個人それぞれが深めて学習を継続していくことができる。そういった個人の活動も大事な一方で、アーティストやオーガナイザー側はプロジェクトを継続していくことも重要ですよね。
KYO-SHITSUプランナー白井(以下、白井) そうですね。どのように複数人でのプロジェクトやコミュニティを継続していくかは大きな問題ですね。アートプロジェクトにおける大事な一つの目的として、文化になることが挙げられます。「文化」として根付かせるためには、まずはコミュニティが長く続く必要がありますよね。
ワークショップ研究者 安斎 勇樹(以下、安斎) 良い学びが連鎖して継続するコミュニティはどのようなものか。一つの環境要因として、「よい学び方をしている先輩の姿を見て学べること」があると思います。例えば、大学のラーニングコモンズ を良い使い方をしている3,4年生の姿を、1,2年生にきちんと見えるようにすること。コミュニティを継続するためにはそのような「よい学び手を可視化する」ことも重要です。
白井 例えば、学年で違うキャンパスにすると、学びが継続しにくい、ということでしょうか。
安斎 先輩が見えないのはもったいないですよね。そういった学び手が可視化されて文化として継続した場の例としては、エコール・ド・パリ時代 のカフェがまさにそうです。1920年代、パリのカフェができた頃、当時の芸術家が集って一日中カフェに居座り続けた。そこから様々な文化が花開きましたよね。そのときに、なぜ文化の中心がカフェだったか、というと、カフェの構造がコミュニティの階層とマッチしていて可視化されていたからですね。外側のカフェテラスは様々な人が出入りしていて、奥に行けば行くほど、常連が増えて話題もディープになってくる。新参者はまずカフェテラスで過ごして奥の漏れ聞こえてくる議論を聞いて、そのカフェに通っていくうちにだんだん中に入っていく。そうして、そのカフェで交流しながら学び、新しいものを生み出していった。
その文化を作っているアーリーアダプターや良い学び方をしている人が、他の人の学習の見本になる、そういった学習者が可視化されることは重要だと思います。
小田 そういった構造は、大学や職場以外ではあまりないかもしれないですね。
安斎 KYO-SHITSUは「一つのイベント」というの単発の学びの場で学習目標があるかのように見えるけれども、とても長期的な実践の中に位置づいた単発のイベントがある、という構造ですよね。だからこそある意味、実践の中のコミュニティというものが必要になってくる。
コミュニティって色々な役割がありますよね。中心的な中心人物や団体がいて、その少し外側に小田君にような外部スタッフがいる。参加者から外部スタッフ、そして中心のメンバー、そういった階層があって、それぞれへの参加の軌道をいかに作るか。例えば徐々に運営側になる軌道があって、その方法が行動とともに可視化される仕組みだと、参加者もわかりやすいですよね。
白井 なるほど。ゲストと参加者だけではない、緩やかな参加の仕方も必要ですね。
安斎 オンラインでもいいし打ち上げでもいいけれど、まずは参加者と運営側が交流できるような場があるといいですね。運営だけでなく、常連が「自分はこういった学び方をしている」と提示できたり、参加者が気軽に交流できるような場。
小田 参加者としての次の段階のポジショニングがある、ということが重要ですよね。
流動的なポジションがコミュニティが育てる
小田 創作やイベントの中での役割(ポジション)が増えることで、コミュニティがより活発になりますよね。例えば、グラフィックレコーディング が出てきて、ワークショップの雰囲気がかわったように感じます参加者と先生以外の役割の人ができたことによって、関係性が少し変わってきてたんでしょうね。
学びの記述者としての関係もあるし、ファシリテーションやそれをサポートする関係もある。ひとつの環境の中に参加者の特性を増やすと、コミュニティも活性化されますね。
白井 確かに一対一の関係ではなく、色々な役割を増やすことはひとつのヒントかもしれないですね。イベント内で参加者とゲストという立場はなかなか入れ替わることはない。違うポジションがあることによって立場が循環することによって成長のキッカケになりますよね。
安斎 やはり単発のワークショップはその場で終わってしまう場合が多いですよね。そういったものをいかに継続する学習のコミュニティにするか。僕の師匠であり学習環境デザインが専門の山内祐平先生 は、著書の中で「多様な参加軌道を確保する」ことが大事だと説いてます。画一的な、参加者が話を聴いてアウトプットして帰る、という関わりかただけでなく、様々なレベルや位置付けの関わり方を用意して、そしてその役割も時系列で徐々に変化していく。そんな多様な関わり方が受け入れられていることがコミュニティを多層的にさせていきます。
小田 なるほど。参加の「軌道」という言葉を使うととてもわかりやすいですね。点としての単純な一役割ではなく、人の関わり方を時間の線として捉えることで、長いスパンの中で成長して変化していくことを見ることができますよね。
安斎 「正統的周辺参加」という理論があります。コミュニティにとっての重要で正当な仕事であるけれど、一部分の周辺的な参加、という意味です。
例えば、服飾職人の見習いはまず、親方に弟子入りしますよね。まずボタン着けしか任されていない。しかしその過程で服の縫い方や行程など、色々なことを学んでいき、やがて服の裁断などもっと多くの仕事を徐々に任されていく……。周辺的なタスクから、徐々に中心に向かって進んでいく行程が必要ですよね。
KYO-SHITSUで言えば、例えば受付など、誰でもできることなんだけれども、その役割がないとイベントが成立しない周辺的で正統なタスクをいくつか作る。そこから中心に徐々にステップアップしていく行程を用意してもいいですね。
白井 受付からスタートして、今は外部スタッフとして活躍してくれている例はまさに小田くんですね! 次回は受付や記録係を大々的に募集しても面白いかもしれないですね。
安斎 絶対やりたい人いると思うんですよね、参加者の中で。
メディア・アートの「大きな役割」とは
小田 KYO-SHITSUのイベントは作品の技術的な共有が中心ではなく、作家の背景や文脈などのもっと深い部分を共有していますよね。そして大きな主題としてメディアアートを扱っていますが、「メディアアートにおける大きな役割」って何だろう?と。
手厳しい...^^; #メディアアート原論 pic.twitter.com/80aJ6HMRXl
— Nao Tokui (@naotokui) 2018年4月7日
『メディア・アート原論』 から一部内容が引用されたツイートが発端となって、少し議論されている内容だと思います。この分野における歴史を知ることの意義や、文化全体の中での大きな役割の意味などは、アートの分野ではどのように議論されているのでしょうか?
白井 現在使われているメディアアートという言葉は色々な意味をはらんでいて、とても多面的なんです。その中でも、二つに大きく分かれると私は思っています。
一つは、いわゆる「ニューメディア」と言われる分野。例えば人の動きに合わせて音が鳴る……などのインタラクティブなコンテンツや、今まで使われていなかった表現技術を用いた表現による作品郡です。ここが主に、本の中にある「機能のみに着目した部分が商業的に消費されていっている」部分ですね。
二つめに、アートの文脈としてある『メディアアート』は、「メディアとは何だ?」と問いかけをしている作品のことを指すと私は考えています。例えば、今まで油絵で表現していたことをキャンバス以外でも伝えられるのではないか、と見直す。伝えることを媒体から考える行為が、メディアアートだと思います。伝え方について考えるとき、それこそインターネットが代表されるように、テクノロジーが発達することで新しい伝え方が常に更新されている。この分野とテクノロジーはとても結びつきやすく、一緒に発展してきた背景があります。
今、『ニューメディア』の表層であるはずの表現技術が『メディアアート』として扱われてしまい、本来の意味と隔離され消費される対象になってしまっています。消費されているだけでは、例えば大きなイベントなどで、今新しいとされている表現が、当たり前になる瞬間が訪れますよね。そうなった時に、アーティスト達は今まで技術だけを消費されてきたけれど、伝えるべきことが届かない、もしくは何を伝えるべきか不明瞭で立ち止まってしまう可能性があります。
今はこのように、世の中の認識自体がごちゃ混ぜになってしまっていて、それを少し整える必要があるのかなと思います。
小田 なるほど「メディアとは何か」問いかけているアートという捉え方をするだけで、今ある様々な作品に対して、そして『メディアアート』という言葉に対する向き合い方が変わりますね。コミュニケーションの媒体として存在するものだとしたら、例えば、普段のメールや、ワークショップ内で使用されているポストイットだって、メディアですね。
白井 テクノロジーを手段として使っていることで色々なアプローチの仕方があるからこそ、メディアアートは様々な領域がミックスしやすい分野です。
例えば、アーティスティックな作品の中で自分の言いたいことを伝えるアート領域。新しい表現を発明して論文を発表するアカデミックなニューメディア・アート領域。そしてエンターテインメントに寄せて人々を楽しませる商業的な領域。いずれの領域も指針にしているものが、芸術、学術、エンタメ……と様々で、それぞれが持つ文脈は違います。そういったバラバラの軸を持つ領域を、領域外の人たちのバイアスによって一言でわかりやすい『メディアアート』とひとくくりにされてしまっていることが誤解の元なのかなと私は考えています。
小田 「メディアとは」という問いの視点で見ると、技術的な分野で新しい発明をしていることは「メディアのアップデート」であるし、例えば手紙という媒体の中でどういう表現手段が可能かを考えている人たちは「メディア自体の可能性探っている」ことである。いずれの領域も同じ土俵の中で、メディアとは何だろうという問いかけを基本にして多様な活動を行っている。そこで沸き起こっている問いのベクトルが違うっていうだけなのかなって。
白井 それはひとつの解かもしれないですね。鑑賞者からしたら、ある意味全て同じ『メディアアート』ですが、作品を見るための切り口を示したほうが理解もスムーズかもしれませんね。今、鑑賞する時にそういった文脈から示されていることが少なく感じます。
安斎 そのように、相対化することによってメディアアートを理解することは一つの手段ですよね。
広がる、ファシリテーションの機能
安斎 メディアアートを鑑賞する際のポイントとして、作品の中にメディアを問い直すための「問い」が作品の内・外どちらにあるかで大きな違いがあると感じています。
メディア自体を問う作品は、その中に「問いかけを与える構造」を持っている。鑑賞することによってそこから鑑賞者自身で考えが作動するポテンシャルを秘めている。
けれども、メディアのあり方を示している物は外に問いを持たないと読み解けません。そうしたときに、作品が触発の可能性を持っている刺激だとすると、学習環境やファシリテーションをうまくデザインしないとそこがうまく機能しない。そこでエンタメとして消費されて終わってしまう場合もあるというところが大きな違いかなと思いました。
白井 そういった意味では、美術館やギャラリーが作品をキュレーションしているからこそ芸術分野は成り立っていますよね。ひとつの作品を鑑賞するとき、そこだけ切り取って体験してもなかなか気づかないこともあると思います。だからこそ「この作品はこういった立ち位置ですよ」と学芸員からのひとつ提示を手がかりに鑑賞するし、「こういった文脈で作品群を収集しました」とプレゼンテーションすることはアートギャラリーの役割ですよね。
けれど最近は、例えばSNSのタイムラインによって切り取られたりすることで、大きな流れの中の作品の一部分だけが見えてしまう。作品が文脈から切り離された状態で見えてしまう場面が多く見られてしまいますよね。
小田 SNSも「一つとしての場所」として機能しているからこそ、インターネット上などの美術館外で作品の鑑賞が行われたとき、「このような認識の仕方があるんだ」と鑑賞者に例を示すことのできる人物が必要ですよね。ただの鑑賞で終わらないための次の考えに繋がる示唆をいかに渡せるか。鑑賞者の中で問いを繋げていくためのファシリテーターのような役割を持つ、所属フリーなキュレーターの存在もほしいですね。
安斎 僕の大学院の先輩で、美術教育を専門にしている平野智紀さん という方がいます。彼は対話を通して美術鑑賞を深める方法について研究しているのですが、研究のベースに「半開きの対話」という理論を置いています。美術作品の中には、作家が込めた意図や、美術史的背景がある。しかしそれを知識として学ぶことで作品を観ることは、ある意味“作品に閉じた”鑑賞になってしまう。一方で、作品の意味は鑑賞者が決めればよいと解釈をオープンにすることは、一つの美術鑑賞の捉え方ではありますが、単に「綺麗な描き方だ」とか「自分にはよくわからない」などと安易な感想やコメントで終わってしまう可能性もある。作品の知識も踏まえた上で、自分なりに自由に解釈する、つまり「半開き」のプロセスで作品を鑑賞する。しかし閉じすぎず開きすぎず、程よい塩梅で深い鑑賞を導いていくことは、なかなか難しい。平野さんはそうしたプロセスのファシリテーションの重要性に着目し、研究をしています。
白井 そうなんですね。たしかに、作品に対しての見方をアシストする機能は、全てを美術館やアートギャラリーが持たなくてもいいですよね。
パブリックアートやアートフェスなど、様々な環境でアート作品が展示されている状況では、キュレーター以外の例えばクリエイターがキュレーションすることで、鑑賞者が気づかなかった一面を伝えられる場合もありますよね。KYO-SHITSUの一つの役割として、その新たな鑑賞の場を与えられたら、と思います。
今回は、お二人とも、どうもありがとうございました!
前・中・後編を通して、イベントでの学習を継続させるコツや、それをサポートするための設計のヒント、そして継続するためのコミュニティとはどういったものか?様々な内容を安斎さんが示す事例や小田さんの体験談から学んできた本対談。経験豊かな安斎さんのご指摘や、小田さんからの長く関わってきたからこそ気づける振り返りから、今後のイベント運営につながるだけでなく、そこで生まれたコミュニティをいかに育むか、ヒントがたくさん得られた対談となりました。
構成・文:siranon / 撮影:岩佐莉花
安斎勇樹
東京大学大学院 情報学環 特任助教/株式会社ミミクリデザイン 代表取締役/NPO法人Educe Technologies 理事。1985年生まれ。東京都出身。私立武蔵高校、東京大学工学部卒業、東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(学際情報学)。商品開発、人材育成、地域活性化などの産学連携プロジェクトに多数取り組みながら、多様なメンバーのコラボレーションを促進し、創造性を引き出すワークショップデザインとファシリテーションの方法論について研究している。主な著書に『ワークショップデザイン論-創ることで学ぶ』(共著・慶応義塾大学出版会)、『協創の場のデザイン-ワークショップで企業と地域が変わる』(藝術学舎)がある。
株式会社ミミクリデザイン
小田裕和
1991年生まれ。千葉県出身。千葉工業大学大学院工学研究科工学専攻博士後期課程在籍。神田外語大学メディア教育センター非常勤職員。2018年4月より株式会社ミミクリデザイン 所属。デザイン教育や、意味を中心とした概念設計に関する研究に取り組む。また、学内外で様々なワークショップやプログラムの設計及びファシリテーションの経験を持つ。KYO-SHITSUでは初期からイベントスタッフを務め、2016年10月より外部パートナーとしてイベントのサポートを行う。ミミクリデザインでは、人材育成・商品開発の両面に対するデザインリサーチとその実践を担当。
ラーニングコモンズ
学生の学習支援を意図して大学図書館に設けられた場所や施設。 具体的には、情報通信環境が整い、自習やグループ学習用の家具や設備が用意され、相談係がいる開放的な学習空間。
エコール・ド・パリ
1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさまざまな芸術家たちの総称。
グラフィックレコーディング
デザインコンサルタント会社IDEOが発案した、会議や座談会での内容を絵や図を用いて記録する手法。 参考:Tokyo Graphic Recorder
山内祐平
東京大学大学院 情報学環 学際情報学府・教授。「学習環境のイノベーション」をテーマに研究を行う。Ylab – 東京大学 山内研究室
メディア・アート原論
2018年 フィルムアート社 久保田晃弘・畠中実 詳細
平野智紀
研究者。教育工学・美術教育・ワークショップ専門 平野智紀ウェブサイト