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Aug 24, 2018

息子のまなざし
関根唯の映画に見つけるFilmical【1】

Yui Sekine
written by Yui Sekine
in category Column

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関根唯さんは、日常の発見を瑞々しい映像で表現している映像ディレクター。彼女は映像をひとつのメディア(伝え方)として捉え、独自の目線で「その映画の良いところ」を採集しています。それは映画を見る上でのより深い楽しみ方、そして創作のヒントになるものでした。そんな「映像ならではの表現」を新旧・国内外問わず様々な映画を題材にして、紐解いていくシリーズです。

「あのシーン、なんだかよく分からないけど、良かったなあ」映画を観たあと、そういう風に感じたことはないでしょうか?

 2012年の冬、私は芸大の映像研究科の院生でした。当時は、修了制作となる『子供の特権』につながる、映画における映像表現の研究制作を始めたばかりで、制作に行き詰まることも多々ありました。そんな中、研究制作の参考にならないかな、と、手を伸ばしたのが『息子のまなざし』という映画でした。この映画のあるシーンを観て、私は先に述べた感想を抱いたのでした。


子供の特権 (2014年)
子供だけが持つ"子供の特権"を失う瞬間を描いた短編映画集。ワルシャワ国際映画祭公式招待上映。

 それから私は、映画を観るたびに、そのように感じたシーンやカットを集めるようになりました。大学院を出て、映像ディレクターとして働くいまも、コツコツと続けています。集めたシーンやカットには、共通している点がありました。それは「映像ならではの表現だからこそ生まれる、独特な感覚」を、観るひとに与えている、という点です。

 ここでひとつ、紹介したい文章があります。それは、その人生において二万本もの映画を観てきた映画評論家の双葉十三郎氏による「映画を観る姿勢」についての言葉です。

「実は、ぼくは映画を観るときにストーリーよりも場面でもって観ている。ストーリーの面白さというものは、映画だけのものではなくて、シナリオを読めばいいし、小説を読んだらいいわけです。映画の本質は、ひとつひとつの場面をどう描くか、場面と場面をどうつないでいくかという、リズムや話術の魅力にある」(僕が選んだ究極の映画一〇〇本 )

「映画の本質」という言葉を使っているとおり、双葉氏の言う「リズムや話術の魅力」は、まさに「映画が映像だからこそ生まれるもの」を指しているでしょう。動きによって生まれるダイナミズムや、空気感、みずみずしさなど、言葉にするときに、こぼれ落ちてしまうもの。小説でもなく絵画でもない、映像ならではの表現だからこそ生まれる、独特な感覚。言葉を変えれば、「より映画的な部分」と言えるかもしれません。私はそれを、「Filmical」と名付けることにしました。

 このコラムでは、このFilmicalが、映画の中にどのように表れているのか、私が見つけたものを紹介し、それがどんな意味や効果を持っているのか、考察していきたいと思います。この試みで、これまで拾い残されてきた映画研究の領域の端緒に、少しでも触れることが出来れば、たいへん光栄です。もしくは、ひとつの映画の楽しみ方として、読者のみなさんに提供できれば、これほどうれしいことはありません。

※このコラムの性質上、これより先は紹介する映画の結末を含むネタバレがあります。ご了承の上、お読み進めください。

『息子のまなざし』について

 第一回は、私がFilmicalであることを意識するようになった、そもそものきっかけの作品である「息子のまなざし」を紹介したいと思います。

この映画の監督は、ベルギー出身のダルデンヌ兄弟。装飾をそぎ落とした静謐な画作りで、社会問題を織り交ぜたヒューマンドラマを描くスタイルには、定評があります。

映画のあらすじは、以下のとおりです。

主人公は寡黙な中年の男、オリヴィエ。更生施設でもある職業訓練所で、大工の講師をしている。ある日、そこにフランシスという少年が入所し、オリヴィエの教え子となる。フランシスは、5年前にオリヴィエの息子を殺した犯人であった。オリヴィエは、葛藤と苦悩を抱えながら、何も知らないフランシスに対峙していく……。

『息子のまなざし』におけるFilmical

 淡々と、しかし美しい画作りで映画は進んでいきます。Filmicalに該当するシーンは、以下のとおりです。

※ 本編 36分10秒〜

オリヴィエは訓練所での講習を終え、深夜のファーストフードでサンドイッチを買い、車に寄りかかりながら食べる。そこへ、たまたま居合わせたフランシスがやってきて「隣、いいですか」と、オリヴィエの横でポテトを食べ始める。しばらくふたりは食べながら、お互いの顔を盗み見る。

少しの沈黙のあと、フランシスは、オリヴィエが自分の身長を見ただけで当てたことを不思議だった、と言う。オリヴィエはそっけなく、慣れだ、と答える。フランシスは思いついたように、足元の敷石から近くの車までの長さをオリヴィエに問う。オリヴィエは迷いなく「3メートル51」と答える。フランシスは、職業訓練所で支給されたばかりの物差しを取り出し、持っていたポテトをオリヴィエに渡そうとする。オリヴィエは、少しためらい、それを受け取る。フランシスが距離を測ると、3メートル52であった。

 フランシスは立ち上がり、もう一度オリヴィエに問う 。「じゃあ、僕の右足から、先生の左足までは?」「4メートル10か11……11だな」答えを聞いたフランシスは、間違えないように、物差しの距離が足りないところは、物差しを動かす前に指で目印をつけながら、丁寧に測る。「4メートル11。すごいですね」と、フランシスは興奮を抑えながら感嘆する。

オリヴィエは返事をする代わりにサンドイッチを食べ、フランシスにポテトを返す。フランシスは物差しをたたみ、ポテトを受け取ると、オリヴィエの隣におもむろに佇む。しばらくして、オリヴィエはいたたまれなくなった様に「じゃあな」と言って車で去っていく。

Filmical:テーマを象徴する“測る”行為

このシーンの中でも、特に重要なFilmicalは、この、ふたりの足の距離を"測る"という行為です。
思いついた様に、オリヴィエとフランシスの足の距離を問うフランシス。オリヴィエが迷いつつ、少し間をあけ、断言する答え。フランシスが、確かめる様に丁寧に測る、その様子。ここには、会話の間や動作など、「映像ならではの表現」が詰まっています。

ここで、オリヴィエとフランシスは、それぞれ違った方法で"測る"行為をしています。実は、この"測る"行為のひとつひとつが、ある解釈を通してみると、映画全体のテーマを象徴していることがわかります。では、この"測る"という行為がいったい何を示しているのか、読み解いていきましょう。

 このシーンは、映画のクライマックスでも、重要な事実がわかるシーンでもありません。しかし、私はこのシーンが妙に印象に残りました。それにも関わらず、その理由は「なんかわからないけど、良かった」というように、ぼんやりとしていたのです。観終わったあとに考えたのは、オリヴィエの勤勉さや、フランシスの無邪気さなどの人物像を示しているということ。また、「避けたいけど気になる」「尊敬しているので会話したい」という、ふたりの心情が読み取れる、というくらいのものでした。けれども、私は、それ以上のものがここに描かれているような気がしてなりませんでした。何かヒントはないか、この映画の感想や批評を探して読んでいくうちに、築島渉氏による批評 を目にしました。

 オリヴィエの職業である「大工」は、「全ての人の罪を許し、背負って死んだ」キリストの職業と同じである。大工という仕事には、「ものごとを正確に把握するバランス感覚」が必要であり、それは、人生でも大切なものである。フランシスは「正確に把握すること」ができなかったゆえ、オリヴィエの息子を殺してしまったのであり、だからこそオリヴィエの「見ただけで正確に距離を測れる」特技に尊敬の念を抱く。フランシスは、初めて「正確に把握すること」の大切さをオリヴィエから学んだからこそ、彼に後見人を頼むほど尊敬するのである。(築島渉氏による批評 より、一部を要約)

 この、オリヴィエをキリストを同じ立ち位置にさせる「大工」という隠喩 を用いた解釈をもとに、Filmicalを見ていきます。「息子を殺されたオリヴィエは、少年院を出所した(社会的に罪を償った)フランシスを許すことができるのか?」「フランシスは、オリヴィエのもとで更生していくことはできるのか?」という映画全体のテーマ、言い換えれば、「オリヴィエとフランシスは、お互いの関係を正確に測っていけるのか」ということを、具体的な映像として表現していることがわかります。ここではそれが、みっつの要素で表されています。

 まず、ひとつめ。ここで測っているのは、「オリヴィエの足」から「フランシスの足」までの距離だということ。言わずもがな、オリヴィエとフランシスが、お互いの関係性を正しく測れるのか?ということを示唆しています。

 次に、ふたつめ。オリヴィエが答えたふたりの足の距離を、フランシスは物差しを使い、自分の手で確かめます。この物差しは、オリヴィエに出会ったからこそ、手に入れたものです。そう、フランシスは、オリヴィエに出会って新しく手に入れた「物差し」を使って、自分の手で丁寧に、そして間違えないように、「ふたりの距離」を確かめるのです。

 そして、みっつめ。ふたりの足の距離を問われたオリヴィエは、はじめは、1センチ違う答えを言うものの、すぐに正しい答えに言い直します。これは、オリヴィエという人物が、葛藤を抱えながらも最終的には適切な態度をとることを象徴している演出であり、それは冒頭とラストのシーンで顕著に描かれています。冒頭では、オリヴィエが自分のクラスを希望したフランシスを拒否しながらも、思い直して受け入れるということ。そして、ラストでは、オリヴィエが、フランシスが殺害したのは自分の息子だという告白をし、それを聞いて逃げ出したフランシスを追いかけ、捕まえた勢いでその首に手をかけながらも、ギリギリ踏みとどまる……というように。

 つまり、このシーンは人物像や心情を描いているだけではなく、"測る"という動的な行為=Filmicalによって、「映画全体のテーマを象徴」していたのです。映画は、ふたりがひとことも話さず、共同の作業を進めるところで終わります。しかし、これらの描写があるからこそ、希望を持って映画を観終わることができるのです。

 さて、私はこれをきっかけとして、「一見してひっかかりのあるシーンやカットには、作り手が意図して入れ込んだものが潜んでいるのではないか」という仮説のもと、映画の中のそういった表現を見つけ、集めていくことにしました。集めていくと、映像だからこそ語れるFilmicalを見つけることができました。それらが、どんな効果や印象を生んでいるのか?ということを、映像の作り手として考えていくことで、映像表現のひとつである映画の可能性を、少しでも広げることができればと思っています。

 このコラムでは、以降も、こういったFilmicalを紹介していきます。読者の皆さんもぜひ、これから映画を鑑賞する際に、どんなFilmicalがあるのか、見つけてみてください。

INFORMATION

『息子のまなざし』2002年・ベルギー/フランス
監督・製作・脚本:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟
2002年カンヌ国際映画祭主演男優賞、エキュメニック賞特別賞、同年ファジル国際映画祭グランプリ、主演男優賞、同年ベルギー・アカデミー最優秀作品賞、監督賞、主演男優賞受賞。
Bitters End 配給作品『息子のまなざし』公式サイト

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟
ジャン=ピエール・ダルデンヌとリュック・ダルデンヌの二人の兄弟からなる、ベルギーの映画監督。『ロゼッタ』(1999年)『ある子供』(2005年)で二度、カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞。

PROFILE

関根唯
映像ディレクター、クリエイティブディレクター
1988年生まれ。武蔵野美術大学デザイン情報学科卒業後、東京藝術大学大学院映像研究科 佐藤雅彦研究室に所属。短編連作映画「子供の特権」は、札幌国際短編映画祭・ワルシャワ国際映画祭など、多数の映画祭で公式招待上映された。
現在は、広告会社スパイスボックスにおいて、映像を中心とした広告に携わりながら、映画やスマートフォンなどにおける「映像ならではの表現」を研究し、メディアの特性を活かした表現を模索している。

FOOTNOTES

双葉十三郎「僕が選んだ究極の映画一〇〇本」文藝春秋2001年11月号特別号,p.324

築島渉 「息子のまなざし」,読む映画批評ー映画観覧ー ,2005年(最終閲覧日:2018年6月3日)

引用部分は下記のとおり。
(前略)
 オリヴィエの職業は「大工仕事」を教える講師である、というのが、この映画の一番の象徴的な事柄であろう。それは、かの「すべての人の罪を許し、背負って死んだ」キリストの職業だ。 また、映像で細かに描写される「大工仕事」は、実はそのイメージとは裏腹に、非常に緻密で精密な仕事である。木材について正確な知識が必要であるし、それを運ぶにもしっかりとしたバランス感覚が無ければならない。すべてを正確に測ってから木材を切断し、測量したとおりに緻密に打ち付ける。
そのバランス感覚の、そして「正確に把握すること」の大切さは、すなわち人生においても同じなのだ。フランシスがオリヴィエの「見ただけで正確に距離を測れる」という特技に尊敬の念を抱く場面がある。フランシスは彼のそれまでの成長の過程で「正確に把握すること」を学ばなかった青年だ。殺すつもりは無かったのに、力を入れたら死んでしまった、とフランシスは言う。「正確に把握すること」は実はとても大切なことであり、彼はそれをオリヴィエから初めて学んだ。だからこそ彼に後見人に頼むほど尊敬するようになるのである。

(後略)

隠喩(メタファ)
物事のある側面を、そのものとは別の物事で例える表現技法。映画以外にも、絵画や小説など他の表現方法でも見られる。